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寺院紹介

 もとは真言宗の金剛寺(こんごうじ)という無住のお寺でありました。弘法大師(こうぼうだいし)が東比田の坊床山(ぼうとこさん)へ巡錫(じゅんしゃく)の折、立ち寄ったという、いい伝えを持つ古寺でありました。
 宝暦初頭、ここを広瀬洞光寺の弟子、愚海魯道(ぐかいろどう)という一人の修行僧が訪れ、朝夕の勤行をつとめ、修行を怠らず、次第に村民の帰依(きえ)を受けつつありました。丁度この頃布部の地で「たたら」(製鉄業)を営み隆盛(りゅうせい)を極めた家島氏に、家島伝吉則豊(でんきちのりとよ)という人がいました。この人の子供に、家島嘉文治(いえじまかぶんじ)という病弱の若者がいて、治療の効もなく亡くなりました。父・伝吉則豊は、一寺を建立しこの子を開基とし、永く菩提(ぼだい)を弔わんと発願しました。たまたま愚海和尚の宿願を知って、ともに力を合わせ、光明山の山頭に曹洞宗安養寺を完成しました。
 嘉文治は、宝暦7年7月25日に没し、開基(かいき)となりました。愚海和尚は広瀬洞光寺の四世竹堂利賢(ちくどうりけん)大和尚を開山に勧請し自らは二世となりました。
 三世龍門巨鱗(りゅうもんこりん)大和尚は西国三十三ヶ所の霊場を巡って、土を持ち帰り観音堂建立を発願しました。そして四世養山宜孝(ようざんぎこう)大和尚はその遺志を実現し、観音堂、位牌堂を建立しました。幕末の八世大道祖関(だいどうそかん)大和尚の時、門風振い(もんぷうふるい)、参ずる雲水(うんすい)は後を絶つことがなかった、つまり沢山の修行僧が安養寺で修行をしていたという事です。十一世梅翁道薫(ばいおどうくん)大和尚は、大正十五年に本堂再建をし、十二世道環大隆(どうかんだいりゅう)大和尚は、位牌堂を再建し、十四世紹元光隆(しょうげんこうりゅう)大和尚は、鐘楼堂(しょうろうどう)を新築し、十五世にて庫裡(くり)を再建致しました。
 現在は、十五世住職円明正光(えんみょうせいこう)、そして副住職壮樹(そうじゅ)が光明山安養寺を護持しております。
 
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